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"the Akasakan diary"    ~リトル君の赤坂日記

●続々・日本沈没考

さて、いよいよ核心に入っていきましょう。
今回は演出についてです。

まずはリメイク版の監督である、樋口真嗣氏について簡単に。

彼は自他共に認めるオタクであり、90年代に社会現象になったアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」にスタッフとして参加しています。彼を一躍有名にしたのは「平成ガメラ」3部作における特撮でした。彼の手になる臨場感のある特撮シーンの数々は、当時のしょぼかった日本映画の特撮水準を大きく引き上げました。
その功績でしょうか、2005年、彼は大抜擢を受けて東宝の大作「ローレライ」のメガホンを取ることとなり、メジャーデビューを飾ります。そしてその成功により、この「日本沈没」が実写映画監督2作目となったわけです。

もちろん、彼に期待する部分の多くは特撮シーンにあることは明らかです(前作「ローレライ」も潜水艦を舞台にしたスペクタクル大作でした)。ですから、ドラマ部分に過大な期待をするべきではないと自分も思います。ですが、やはりこの作品には、特撮以外、演出で見るべきものはなかったように思います。

難しい作品だったことは間違いありません。彼自身、幼少時に旧作を観て大きな衝撃を受けており、その大ファンであることを公言しています(旧作の全てのシーンを空で言える程だそうです)。ですから、イヤと言うほど旧作を意識せざるを得なかったでしょう。至るところに旧作へのオマージュが感じられます。また、オタクぶりを遺憾なく発揮してマニア受けするような細かなネタが随所に散りばめられています。

こういった点は、エンターテイメント大作という性格からも、リメイクという事情からも、大いにアリだと自分は思います。けれど、過ぎたるは及ばざるが如しで、くどすぎるこだわりが作品の質やテンポを落としてしまったように思います。

まず旧作へのオマージュですが、テロップの多用が踏襲されていました。シーンの変わり目に「東京 ○時×分」とか、「太平洋沖 東経○度、北緯×度」とかいった字が画面に大きく出ます。これは別に奇抜な技法ではなくて、実録的な作品やドキュメンタリータッチの作品ではよく使われるものです。画面を引き締め、リアリティを出すのに効果的です。

しかし、リメイク版ではこれが必要以上に多い。レスキュー部隊の訓練の名前なんか別に要らないし、自衛隊の艦艇の正確な名称なんか知らなくても全然困らない。テロップが多すぎると、字を読むことに追われてしまい、かえって画面への集中が殺がれてしまいます。こういったところは、軍事オタクな監督が、抑えが利かずに失敗をしているところだと思います。

オタクが喜ぶネタとしては、「エヴァンゲリオン(アニメ)」ネタの数々が。親友である庵野秀明氏(エヴァの監督)や、ガンダムの富野監督のカメオ出演は良いとして、N2爆薬には笑ってしまいました。これはエヴァに出てくる強力な爆薬で、核兵器に近い破壊力を有するという設定も全く同じです。わかる奴だけに向けてニヤリとさせよう、という監督の意図が感じられます。ただ、この映画を観にきている人たちの多くにとってはどうでもいいことで、それが伝わっているかは甚だ疑問です。実際、N2爆薬と聞いて笑っていたのは、周りでは自分だけでした…。

あと自分がニヤリとしてしまったのは、小野寺の実家である福島の造酒屋を切り盛りしている姉の役を、和久井映見が演じていたことです。覚えている方も多いでしょうが、以前にテレビでやった「夏子の酒」で、若くして造酒屋の当主を継ぐことになった女性を演じたのが他ならぬ彼女でした。こういった遊び心は楽しいものです(まあ、端役に過ぎない彼女の演技が一番上手かったのは、皮肉と言えば皮肉ですが)。

さて。

以上のように、樋口監督の細部へのこだわりは特撮の懲り様にも反映されており、オタク監督の面目躍如と言えなくもありません。ですが、問題はドラマ部分なのです。
こういった映画は特撮が目玉のように思いがちですが、実はドラマがしっかりと描けていないと、大仕掛けだけが売りの薄っぺらい映画になってしまいます。リメイク版はここがイケてないのです。

樋口監督が人間を描けるのかどうかはまだ分かりません。しかし、彼が性を描けない監督であることは、もうはっきりしたと自分は思います。

これは前作「ローレライ」から感じていたことでした。男ばかり(しかも若い血気盛んな男達!)が密室に缶詰になっている潜水艦に、突如として若い女(しかもドイツとのハーフの美女!)が乗り込んできたらどうなるか。少なくとも、性に関する乗組員達の戸惑いといったものは当然起こるでしょう。ところが樋口監督はそういったものを一切描かないばかりか、ただ1人、彼女と深く心を通わすことになる特攻隊員との交流すら、通り一遍の域を出ないままに終わらせてしまいます。
この描写の薄っぺらさはどうしたものでしょう。少し意地悪なことを言えば、「天空の城ラピュタ」のゾーラ一家や「未来少年コナン」のバラクーダ号の乗組員の描写の方が、はるかに自然に性(男が女に好意を抱く様子)を表現できていると思うくらいです。

一番深く交流する男女の間にすら、性的表現が一切ない。これはあまりにリアリティーに欠けます。でもこれはある意味当然であったとも言えるのです。「潜水艦に若い女の子がいる映画を撮りたかった」という、監督自身のコメントでも明らかなように、明らかに「始めに設定ありき」だったのです。ですから、女性の扱いがモノの様になり、映画の中から性がスッポリと抜け落ちているのも納得なのです。

そしてやはりというべきか、本作においても、性は丁寧に切り取られていました。
それは次のシーンに象徴されていました。

物語も終盤、玲子がレスキュー活動をしているキャンプを小野寺が訪れた場面。彼はある決意を秘め、彼女に最後の別れを告げに来ます。しかし、その前に会った時に気まずい別れ方をしたわだかまりが邪魔をして、二人の会話はうまくかみ合いません。しかしその夜、二人はついに互いの気持ちを通わせます。静まり返ったテントの中で抱き合う二人は、ゆっくりとキスをします。「抱いて…」つぶやく玲子。彼女を背中から抱いていた小野寺は…。

何にもしないんですよ!これが!!

なぜ? どーして?

愛を告げた男と女が、明日をも知れない状況で、最後になるかも知れない夜を過ごしていて、しかも女の方から「抱いて」って言ってるのに!
玲子の気持ちはどうなんのよ!

自分が一番不可解に感じたシーンでした。

本作品における、樋口監督の性の回避はこれだけではありません。彼は小野寺に、自分と玲子、そして震災孤児の少女とで家族になってイギリスで生きていこう、と言わせます(玲子は拒否しますが)。これはつまり、性の介在しない家族を設定したということです。主役の二人の間に性的関係を作らずに子供まで作って家族を作る。自分は、そこまで性を避けるのはなぜですか、と監督に聞きたい衝動に駆られました。

(つづく)
by redhills | 2006-10-02 21:25 | 映画
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赤坂日記・・・赤坂在住の"Akasakan" リトルが、東京のへそで日々の思いを綴る。

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