"the Akasakan diary"    ~リトル君の赤坂日記

カテゴリ:映画( 35 )

●ピンポンとロッキー (12月7日)

 ちょっとまえだが、テレビを見ていたら窪塚洋介が出ていた。映画「ピンポン」だ。特に見たくもなかったがせっかくなので観る。

 ストーリーは典型的なスポコン。もともと卓球の才能があって実力もそこそこあるけれどまじめに練習しない主人公の高校生が一つの敗北をきっかけに卓球への情熱を取り戻し、ライバルたちに負けまいと精進した結果、熱戦の末最後に勝利するという話。
 観ていくうちに段々テンションが落ちてきた。少しヒットしたらしいが大した作品じゃない。窪塚は確かに熱演だと思うが、別に心を打たれるわけでもない。ストーリーもありきたり。唯一つ収穫があったとすれば中村獅童で、全然周りと違う空気を発散していた。なるほど、役者の血とはこういうものかな、という気がした。

 こう書くと身も蓋も無いようで窪塚ファンや「ピンポン」が好きな方には不評だろう。でも、僕が見たところ、この作品は「マンガの映像化」でしかない。つまり「動くマンガ」であって、「映画」ではない。

 じゃあ、「動くマンガ」と「映画」とは何が違うのか。これがなかなか一口にはいえない。言えないのがもどかしくもあるのだけれども、一つ言いたいのは、この作品のカット割だ。
 映画というのは言うまでも無く映像作品だから、絵が滑らかに動いてゆく。ところが、「ピンポン」の画面構成はたびたびブツブツと不自然に千切れる。しかも不必要なほどに難しいアングルから撮ったショットがちょくちょく入り込む。まるで「こーんなこともできますよ」「こんなアングルはどうですか」と言いたげだ。そしてその珍妙な構成がもう、そのまんまマンガのカット割りなのだ。僕は原作は読んでないが、読まなくても「ああ、このシーンはきっと原作ではこう、こんなカットなんだろうな」と容易に想像できる。あと、役者についても「きっとこのキャラはこんな絵なんだろうな~」なんて、似せれば似せるほど想像できてしまう(ま、これはこれでいいのかもしれないけど)。

 当たり前のことだけども僕は原作を批評はする気は無い。むしろ、マンガとして読んだら面白いんだろうなと思うくらいだ。でも、マンガを読んで面白いな、と思って、じゃあそれをそのまま動く絵にして「映画の出来上がり」などという人がいたら、笑ってしまう。それは映画じゃないですよ。ただの「動くマンガ」。この監督は果たしてどういう魂胆でこの作品を撮ったのか。これをもって映画です、と本当に思っているのかな。ひょっとして、「動くマンガ」が出来上がることをわかっていながら撮ったのかな。

 僕は自然と「ロッキー」と比較していた。ストーリーは陳腐だけど、「ロッキー」は確かに映画史に残る作品だし、何より「映画」だ。それは「ロッキー」が映画として撮られているから、としか言えない。

 スタローンの乾坤一擲の魂の一撃。売れない自らの境遇をロッキーバルボアという一人のボクサーに投影して一気に書き上げた脚本を自ら売り込み、金が無いからと自ら主演して打った大博打。結果「ロッキー」は大ヒットするのだが、その成功は常識ではありえないことであり、まさにスタローンその人の人生はそのまま映画的な感じすらする。
 あの、フィラデルフィアの早朝の街を駆け抜け、市庁舎の階段を駆け上がり、両の拳を突き上げるシーン。エイドリアンとのスケートのシーン。老トレーナーとの葛藤と和解。試合前日に眠れず会場を見に行くシーン。そしてあの、最終ラウンドから撮っていったという、アポロとの死闘。叫ぶロッキーとエイドリアン・・・。ロッキーはスタローンそのものだ。どん底で絶望し、そこから転がり込んできた一縷の可能性に賭け、無敵の王者に戦いを挑んでいく姿に「ロッキーがんばれ!」とたかぶる気持ちを抑えられなかった人たちは沢山いた。「ロッキー」は確かに世界中の人の心を動かした。

 予算が無いので試合のシーンは撮り直しが効かない、ぶっつけ本番だったという。また観客のエキストラもそこらのホームレスをフライドチキンを食べさせてやると誘って呼び込んで経費を浮かし、撮影は行われた。失敗は許されない。そこにはボクシングという以上の緊張感がみなぎっていたことだろう。
 だからカメラワークに面白みは確かにない。演技も極上ではないかもしれない。しかし、迫力、みなぎるエネルギーははち切れるほどに画面からあふれている。ロッキーはもはや、スタローンという役者の演じている架空の存在ではなく、観ている僕らそのものになってしまう。それこそが、「ロッキー」の映画としての存在感であり、価値である。まさに「映像体験」としか言えないものを与えてくれるもの、それこそが「映画」だと思う。
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by redhills | 2004-12-07 14:20 | 映画

●思い出の映画たち2 「ワイルドバンチ」

 ワイルドバンチ:THE WILD BUNCH(1969)

 監督 : サム・ペキンパー Sam Peckinpah
 製作 : フィル・フェルドマン Phil Feldman
 脚本 : サム・ペキンパー Sam Peckinpah
      ウォロン・グリーン Walon Green
 撮影 : ルシアン・バラード Lucien Ballard
 音楽 : ソニー・バーク Sonny Burke
 出演 : パイク ウィリアム・ホールデン William Holden
      ダッチ アーネスト・ボーグナイン Ernest Borgnine
      ソーントン ロバート・ライアン Robert Ryan
      ライル ウォーレン・オーツ Warren Oates
      テクター ベン・ジョンソン Ben Johnson
      サイクス エドモンド・オブライエン Edmond O'Brien
      コファー ストローザー・マーティン Strother Martin
      マパッチ エミリオ・フェルナンデス Emilio Fernandez


 思い出の映画たち第2弾は、映画史上一番かっこいいセリフが聞ける映画を。

 この作品の評価ははっきりと分かれる。特に女性からは「野蛮」「理解できない」という感想が聞けそうだ。でも僕に言わせれば、「んなこたぁ知ったこっちゃない」。女達が何と言おうとワイルドバンチは断然面白いし、そして何よりかっこいい。なにがどうかっこいいかって? まあ、あわてなさんな。

 ワイルドバンチを見たのはディレクターズカット版が公開された1997年。渋谷で女の子と見に行ったのだが、もう、最初から最後までペキンパーの強烈な一発にノックアウトされっぱなしだった。西部劇映画の金字塔だと聞いてはいたけれど、これほどまでにサイコーな映画だとは思っていなかった。ビデオを我慢して映画館で見て良かったと本当に思った。

 時代は西部開拓時代の末期。だんだんとその生き場所がなくなってきている、西部の荒くれ男たち(ワイルドバンチ)の、生き様、そして死に様をハードなアクションと破天荒な生活描写の中に深い共感をこめて描きこんだ傑作。
 これは一言で言えば、男が作った、男の映画である(といっても、あっち系の映画では、もちろん、ない)。21世紀、こんな男たちは、もう絶滅してしまった。何よりペキンパー自身が最後の西部に生きたアウトサイダーであり、ここに描かれた男たちは、そのすべてが彼自身の分身である。監督による自画像でもあるこの作品は全編冷徹なリアリズムに貫かれており、バイオレンスシーンも容赦なく、ましてやお涙頂戴な甘ったるい場面などひとつもない。余談だが、同じ年に公開された「明日に向かって撃て」も西部末期を生きるガンマンが主役なのだが、こちらはアメリカン・ニューシネマらしく、さわやかなタッチで水彩画の趣きである。同じ年に、同じ時代や背景の設定でこうも違う映画ができるというのも、また映画の楽しみだと思う(ちなみに、僕は「明日に~」も大好きである)。

 彼らは西部の荒野で法も秩序も受け入れずに好き放題に生きてきた無法者たち。まぁ、ぶっちゃけて言えば、「七人の侍」の野武士だね。でも彼らは卑怯者ではない。悪い奴らといっても彼らには誇りもプライドもあり、この無法地帯で生き延びてきた自負も自信もある。だが、彼らはもう若くはない。鉄道に象徴される新しい時代の波の訪れ、そして、もう自分たちが生きていける時代が終わりつつあることを感じ取っている。
 彼らはプロである。フロンティアというジャングルで生きる肉食獣であり、強いものが生き残り、弱いものは死んでゆくという、情け容赦のない掟の中に生きている。仲間同士の間でもいさかいや裏切りが絶えない。でも、そんななかで作り上げた信頼は本物であり、その、湿度のまったくない友情が、荒涼とした西部の風景に実に良くマッチする。

 公開時にこの映画が批判を浴びたのは、その残酷な殺戮シーンが問題とされたからだった。あの、映画史上有名なストップモーションを使ったラストの銃撃戦シーンだが、今見てもすごい迫力。まったくそのパワーは衰えていない。言っておくが、当時CGなどという、便利なものは無かった。あと、断言するが、ジョン・ウーの師匠は間違いなくペキンパーである。ウーのファンはペキンパーを敬うべし。

 さて、そんな彼らはそろそろ潮時だと思い銀行強盗を計画するのだが、敵もさるもの、わなを仕掛けており作戦は失敗。それではと列車強盗を企てるのだが、新たな横槍が入って計画が大きく狂いだし、大切な仲間たちが一人、二人とやられていく。動揺し仲間割れしそうになりながらも、ボスのパイク以下、残ったワイルドバンチ達は囚われの仲間を救うべく、死を覚悟して立ち向かっていく。
 はっきりいって、彼らはアホである。ボスのパイクと副官のダッチは知恵もあるが、そのほかのやつらは単細胞でイカレたやつばかりだ。でも、それがとてもいい。俺たちゃワイルドバンチだ! って感じで荒っぽいんだが、一たび打ち解けるとサイコーにいいやつだったりする。
 パイク役のウイリアムホールデンは渋くてかっこいい。そして、ダッチのアーネストボーグナイン、彼はハンサムじゃないがこれがまた、かっこいいんだね。脇役をやらせたら右に出るものはいない。こういった、忠実な副官なんかやらせるとほんとハマるね。このコンビでスタートレックやって欲しかったな。西部劇になっちゃうけど。

 話がそれた。
 自分たちを皆殺しにする罠だと知りながら、マパッチ将軍に囚われたエンジェルを救いに向かうワイルドバンチ。こちらはたったの4人。相手は数百人の私設軍隊。まず勝ち目は無い。それでもかれらは悠然と進んでゆく。仲間を助けることは彼らにとって当然のことなのだから。

 そして、映画史上最もかっこいいセリフがパイクの口から放たれる。

      Let's go (いこうぜ)

 ライルが応える

      Why not (いいとも)

 男同志に多くの言葉は要らない。これですべてが通じる。このやり取りは本当にかっこいい。男なら、こんなレッツゴー、死ぬまでに一度は言いたいもんだ

 砂漠に散ってゆく彼らの姿が僕にはアフリカのサバンナに君臨するライオンや象に見える。誇り高く、誰にも従わずに生きてきた彼らも今や保護なしには生きていけない。そんな世界にしたのは誰なのか。そしてペキンパーもまた、後にスティーブマックイーンという名優を得ることもあったが、徐々にハリウッドで居場所を無くしてゆく。それは時代の必然だったのだろうか。僕らはワイルドバンチの中に彼の気高いスピリットを感じるのだ。

 最後にオチをつけておくと、一緒に見に行った女の子とはそれきりだった。後で知ったのだが、彼女は筋金入りのジェンダー論者で当然、男尊女卑の極致のようなこの映画が御気に召すはずなどなかったわけである。皆さんもデートの際の映画のチョイスにはくれぐれも気を付けましょう
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by redhills | 2004-11-30 12:44 | 映画

●思い出の映画たち1 「男と女」

 男と女:UN HOMME ET UNE FEMME (1966)

 監督:クロード・ルルーシュ Claude Lelouch
 製作:クロード・ルルーシュ Claude Lelouch
 脚本:ピエール・ユイッテルヘーベン Pierre Uytterhoeven
    クロード・ルルーシュ Claude Lelouch
 撮影: クロード・ルルーシュ Claude Lelouch
     パトリス・プージェ Patrice Pouget
 音楽: フランシス・レイ Francis Lai
 出演: アヌーク・エーメ Anouk Aimee アンヌ
     ジャン=ルイ・トランティニャン Jean-Louis Trintignant ジャン・ルイ


 さて、映画は星の数ほどあるけれど、大河の一滴のように、これはという映画について少しづつ綴っていこうと思う。
 まず栄えあるトップバッターは、ロマンティックな季節に合わせて!?「男と女」です。

 あのフランシス・レイのテーマと、冬のフランスの情景が素晴らしく、一度聞いたら見たら忘れられない。そして何と言ってもアヌーク・エーメ!それらが調和して完全な世界を作っている。1966年のカンヌパルムドール(当時はグランプリ)。同年アカデミー賞脚本賞、外国語映画賞。

 でもこの映画、たった6人のスタッフで3週間でとっちゃったそうです。映画はやたら手間ひまかければいいってもんではないらしい。
 一応カラーなんだけれども、半分くらいがモノクロ。夜の場面が多いこともありますけれどもその場合でもあえてモノクロ。よくあるモノクロの使い方として、回想シーンがありますが、この作品では逆に回想シーンがカラーでリアルタイムがモノクロという場合もあり、ありきたりの演出を拒絶しています。

 ストーリーは、バツイチ同士の男と女が出会って惹かれあって喧嘩して、そして結ばれるということで分かりやすい。というわけで見どころは愛しあうに至るまでの2人の心模様、ではなくて、とにかくアヌーク・エーメのあの美しさです!!独断的ですが。

 彼女はモノクロの方が断然美しい。深い深い光をたたえたその美しさは、上質な漆器のつやと温もりを感じさせます。ギラギラとかキラキラ、という輝きではない。太陽ではなく、月の輝き。
 月は神秘的な力を宿している。吸い込まれるような美しさをこの映画のアヌーク・エーメはたたえています。
 彼女の美しさの前にはあの音楽も哀愁ただよう情景もはなやかなレースも単なる引き立て役でしかありません。
 
 とはいうものの、やはりこの映画は男と女の映画。
 男として、「こりゃ男だなー」と思うのは、ジャンがアンヌからの愛の告白を受け、喜んで疲れもものともせず、夜通しムスタングをぶっ飛ばしてアンヌに会いに行くところです。ええよ~。ここは映像も音楽もちょっと趣向をこらしています。監督も男やなーと思いました。
 あとは女との逢瀬の後別の女の待つ元へいくところは、まあ、これも男ですね。
 みなさんはこの映画のどこに「男」あるいは「女」を見ましたか?
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by redhills | 2004-11-19 00:04 | 映画

●文芸坐で映画を (11月11日)

 僕は映画が好きで、結構見るほうである。調子付くと月に20本くらい見ることもあるが、ならせば年間60本くらいになると思う。なかなかだと思うが、自分としてはまだまだ見たいと思っている。他のことを考えずに映画を思う存分見られればどれだけ幸せだろうと思うくらい。ビデオは見ずにできるだけ映画館で見る主義でそのうえ、大作より掘り出し物との出会いに喜びを感じる性質なので、行くのはどうしてもシネコンより、過去の映画を2本立て、3本立てでみせる名画座や、アート系の映画館となる。ホームグラウンドは池袋の『新文芸坐』だ。

 昔、『新文芸坐』は『文芸坐』だった。そして『文芸坐』で僕は映画に出会ったのだった。もちろん、子供のときから映画は見ていた。でも、やはり僕が映画を見るようになったのは、『文芸坐』で映画を見てからのことだ。

 池袋駅から徒歩5分のところにある、薄汚れた白い壁に羽の生えた女神(竪琴を持っているのでおそらく芸術の女神ミューズ)のレリーフと「BUNGEIZA」のロゴが目立つ建物、それが『文芸坐』だった。『文芸坐』には1と2の二つの映画館があった。『文芸坐1』は大きくて、主に少し前に終わった封切りのハリウッド映画や邦画の大作を2本立てでお安く見れますよ、という感じ。『文芸坐2』のほうは、横っちょの入り口から暗い階段を地下に下りていった先にあり、ミニシアターとして、よりこだわった作品を上映していた。『文芸坐』ではいつも何らかのテーマに合わせた特集が組まれていた。テーマは監督だったり、俳優だったり、アカデミー賞だったり、アジアだったり、サスペンスだったり、ロマンポルノだったり、その時々で様々だったけれど、いつも感心したのは、組まれた2本が常に何らかの共通点(もしくは著しい対比点)を持っていたことで、今日は何が隠しテーマなんだろう、と思いつつ見るのも楽しみだった。本当に映画を良く見ている人たちがプログラムを組んでいるんだと思った。

 初めて『文芸坐』で見た映画は忘れもしない『七人の侍』だった。一度は見たいと思っていたので、思い切って行ってみたのだった。地図を片手に風俗街を走り抜けて着いたときにはもう上映時間を過ぎていた。受付で「『ななにんのさむらい』1枚下さい」と言ったら、メガネをかけたお姉さんに上目遣いで「『しちにんのさむらい』ですね」と返された。「やべぇーしくじった」と思いながらドアを開けると、いきなり「野武士のテーマ」が耳に流れ込んできた。立ち見が出ている暗がりの中をうろつき、ようやく壁際の一角に居場所を見つけた。目が慣れてくるとかなりの混雑だった。
 恥ずかしかったからか走ってきたからか、館内はかなり蒸し暑く汗が出たが、そんなことはすぐに消し飛んでしまった。『七人の侍』は最高だった。何といっても三船の菊千代は魅力的だった。そして宮口精二演じる久蔵の剣豪ぶり。ルパンに出てくる五右衛門を髣髴とさせる(失礼を承知の上、当時の感覚です)しぶさと強さとストイシズムに酔った。4時間近くの間立ちつづけだったし、画面は白黒だったけれどもまったくそんなことは忘れていた。静と動、明と暗、正と邪、笑いと怒り、かっこよさ、色気、そんなものが怒涛のように押し寄せてきた。表現のしようのない、強烈な体験だった。

 映画と出会った僕はそれから『文芸坐』に通い詰めた。1人暮らしをするのにわざと池袋から2駅のところにしたのも、帰りに寄るのに都合が良いからだった。
 いつ行っても『文芸坐』には映画が大好きで見にきた人たちが集まっていて、館内には映画を見る喜びが充満していた。おかしい場面では爆笑が、シリアスな場面では張り詰めた空気が、悲しい場面では嗚咽が館内を満たした。それはまぎれもなく、「ニューシネマパラダイス」の光景そのものだった。もちろん、実際は「ニュー」ではなかったけれど。

 その『文芸坐』が取り壊されると決まり、最後の上映がされる日。急いで仕事を切り上げ、初めて行った時と同じように、池袋の街を走った。確か泉鏡花原作の「婦系図(をんなけいず)」だったと思うが、違ったかもしれない。スクリーンが暗くなり、明かりが灯る。拍手が鳴り止まない。すると、館主の三浦大四郎さんが壇上に上がり、短いお礼とお別れのあいさつを述べられた。また拍手。僕も拍手。いくつもの花束が贈られる。むせび泣く声があちこちから聞こえてきた。全てが終わっても、みななかなか立ち去ろうとしない。僕も剥げ落ちた壁を触りながら清潔とはほど遠いトイレなどを歩く。外へ出ると、テレビが取材に来ていた。
 10歩進む。振り返る。もう少し歩く。振り返る。やがて、覗き部屋のネオンの光と呼び込みのテープの声が僕の目と耳から『文芸坐』を奪ってゆく。さようなら、『文芸坐』・・・。
 
 8年が経った。4年前に同じ場所で生まれ変わった『新文芸坐』は1、2階がパチンコ屋で、映画館は3階にある。2本立てのプログラムは健在で、あいかわらずのこだわりを見せていて、嬉しい。席もゆったりとし、音もドルビーサウンド、トイレは清潔だ。でももう一度でいいから『文芸坐』で映画を見たい。特にあの、暗がりの底にあった『文芸坐2』で。
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by redhills | 2004-11-11 19:22 | 映画

●2046 (10月23日)

午後仕事のため外出。

暗くなった頃に解放され、渋谷で買い物。携帯を見る。今使っているのは3年以上前に買った物だが電池の寿命が短くなってきたような気がしている。もちろんカメラなんぞついていないが、当時最新型の「カラー」液晶モデル。こういったものの変化の早さに改めて驚く。お目当てはINFOBARのNISHIKIGOI。形がよくカラフルで前から良いなと思っていた。思ったより安かったので買うことにする。

店内を歩いていたとき、弱い地震がきた。その時は「おっ」という程度だったが、後であのときに新潟で地震が起きていたことを知る。台風の後に地震では本当に大変だろうと思う。
そんなことは知らない私は偶然にも覗いた映画館で、今日(10月23日)がウォン・カーウァイ監督の最新作「2046」の公開日であることを知る。
木村拓也が主演したことでも注目されている本作であるが、公開日は知らなかった。このレイトショーがこれからあるという。しかも通常の3分の2の値段である。こういう流れは神様が自分に見ろといっているのだろうと思って見ることにする。

上映までまだ1時間半以上あったので、ドンキで買い物。赤坂に来て以来、たびたびドンキにお世話になっているが、今回初めて1階から3階まで見る。買うつもりでなかったものまで買ってしまう。

映画館に行くと、もう30人ほど並んでいる。シャツ1枚では外は少し寒かったが、ここは人が詰まっていて、どんどん暑くなっていく。まわりを見ると90%はカップルである。映画好きな恋人達がキムタクの主演作を期待して見に来ているのか。すぐ後ろのカップルが痴話げんかを始める。最初に来たときからムードが悪かったが、どうやら男のほうが仕事帰りにコンパに行くことに女のほうが反発しているらしい。「私がハセキョーだったら浮気しないでしょ」なんて言って女が問い詰めている。あまりに絵に描いたような状況設定とそのやりとりに笑ってしまう。映画でも見て仲直りしようね。後ろを見ると、100人以上はいそうだ。それにしても暑い。

予定よりやや遅れて開場。非常に不快な場所から解放されたこともあり、席へと突進する。いい席が取れたが、2列前のおやじの頭が異常に飛び出している。なんなんだよ、その頭。もう少しひっこめてくれよ。前の席は女性だったが、しばらくして彼氏と席を替わった。無理も無いと思う。

さて、いよいよの「2046」なのだが、その前にウォン・カーウァイについてすこし。彼を知ったのは数年前、「恋する惑星」を見たときである。もうショックなんてもんじゃなかった。始まってから終わるまでスクリーンに釘付けだった。なんてポップな。なんて自由な。若さと都市とせつなさと不可解さが混然となって爆発している、そんなよくわからない、でも絶対もう一度見たくなる、そんな映画だった。恥ずかしげも無く言えば、ゴダール「勝手にしやがれ」を感じた。それまでに見たどのアジア映画、香港映画ともまったく違っていた。立て続けに「天使の涙」「欲望の翼」を見て、はまっていた。そして、「東邪西毒」の映像の美しさに感動した。
しかし、おやと思ったのは「ブエノスアイレス」だった。ホモセクシュアルという題材に問題があるのではなかった。なぜか2人の男達の愛憎が響いてこなかった。彼らは同じ運動を繰り返していたようにみえた。退屈な映画だった。

そしてしばらくぶりに見たのが「2046」だったのだが、結論から言うと、ダメだった。

いろいろ言いたいことはあるが、一番の問題点は前作と同様、登場人物が生き生きと迫ってこない点だった。ここでネタバレはしないが、過去と未来をつなげる必然性があったのだろうか。

思うに、彼(ウォン監督)は悩んでいるのではないだろうか。わからなくなっているのではないか。それをそのまま描いているような気がする。吹っ切れないもどかしさが終わりまで晴れないのだ。でも僕が見たいのはあの破天荒でエネルギーにあふれた人間達なんだよ。
なぜだかわからないけど、彼はもはや、そういった人を描けなくなってしまった。残念なことだ。ひょっとすると彼にとって、そういった人間像はいまやリアリティーを感じさせないのかもしれない。ウォンさん、もっと自由に、堅苦しくなく、かる~く映画撮ってくださいよぉ。頼みます。

見終わった帰り道、何か寂しくなってしまった。ウォン・カーウァイ監督の復活を望む!!
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by redhills | 2004-10-24 01:22 | 映画



赤坂日記・・・赤坂在住の"Akasakan" リトルが、東京のへそで日々の思いを綴る。
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